【反省文】なぜ《上位の大峨、苦御》はダメだったのか
《上位の大峨、苦御》の何がだめだったのか。

1.出会い
一度は形を見た《スラクジムンダール》。しかしマナコストの都合上何回もキャストできない上に、影響力を発揮するのが遅いせいで単純なデッキの強さでの勝負になっていしまい、適当なノーギミックジェネラル(例えば《破滅の龍、ニコル・ボーラス》)に劣る欠陥を抱えていた。

基本的に青を基本色にすることが私が提唱する「EDHにおける会話」をするのに必須だと考えている私は、黒単の統率者なんて普段目にも当てなかった。しかしふとした拍子に(多分Tapped outのTier表を網羅してた時)苦御に出会った時、コントロールの成立を夢想した。

つまりクリーチャーの恒久的な除去により盤面を安全にした上でプレインズウォーカーの擁立をもってしてコントロールできるのではないかということである。

2.構築
《肉袋の匪賊》を始めとする除去クリーチャーを使い苦御の反転を目指すわけだが、そこに欠陥はなかった。一番構築を歪ませていたのは苦御のマナコストだった。黒黒黒要求はデッキに《マナの墓所》《太陽の指輪》といったカードの存在の価値を著しく落としていた。つまりジェネラルに引っ張られてデッキパワーに一定の上限がもたらされていたのだ。構造上一番つらかったのはそこだった。初動が3ターン目の苦御キャストという事態を許容できないといけなかったのだ。

3.実践
苦御に無くて《スラクジムンダール》にあったもの、それは確実な勝ちへの道筋だった。自分のやりたいことができて盤面を膠着させることができたとして、ジェネラルがそこから速やかに相手を退場させることができるかどうかは重要なファクターだ。エンチャントになることで除去を回避できる代わりに盤面を膠着させることしかできない苦御はプレイはできるが勝ち得るデッキとはならなかった。

逆に良かったと思う点もある。まずははじめての黒単を感じることができたこと。あと構築時点よりもクリーチャー、非クリーチャーデッキの相性差が在るわけではなかったということだ。コンボデッキに弱いのは当然だが、このゲームはジェネラルがクリーチャーとなることがほとんどなので、《スラクジムンダール》のときに課題にしていた「ジェネラルという無限リソースへの対処」という課題はクリアできた素晴らしいジェネラルであったとは今でも思っている。

4.心境
最強ジェネラルが出来たと宣い、構築して不安がよぎり、実践で欠陥が露呈するという典型的なクソデッキの生き様だったわけだが、色々と考えさせられる事が多かった。もちろん構築については久々にバランスや確率を考慮するぐらいには真面目に考えたし、《Chains of Mephistopheles》の力を借りてまでも強さを求めた。しかし残酷にも私がこのデッキの限界を見たのもこの《Chains of Mephistopheles》だった。確かに十分な影響力はあったが、この鎖が膠着させてくれた場を我が物にする力がデッキに備わっていないことを思い知らさせる結果になってしまったのだ。

またプレイ中、棲み分けについても色々の愚痴も出たものだが、謝罪せねばならないとも思っている。私は今回、確かにあえて弱いコンセプト(つまりコントロール)でデッキを組んだが、それを棚に上げて相手のデッキの強さを嘆くのは不毛だったかもしれない。

勝ちに拘る必要はないのだが、勝ちに向かう必要はある。そう思う複雑な心境が矛盾を孕んだ言動を生み出すのだが、この苦御というデッキの埋葬とともにこれだけは伝えておきたい。

私は長くゲームをするのを目的としていて、いくつかのゲームはそれが実現できた。それが結果、私の勝利に終わることがなくても、勝ち以上の楽しさを得ることは出来ていた。私はそれで十分だということだ。

とはいえ黒単コントロールは、やはりEDHには青の打ち消しが会話に必要なことの証左にしかならなかった。次回のコントロールはいつになるかわからないが、しばらくまた構想を練りたい。新たなジェネラルの登場も待ち望まれる。

しばらくはまた普通の遊びに戻ろうと思う。モダンホライゾンも発売されたのに関係ないデッキを使うのもそろそろもったいないと思い始めていたところだった。《虎の影、百合子》は使うに足る面白さがあると思っていた。

それでは。

コメント