DN新設/「ガチカジュアル論争」
2017年3月16日 雑記FC2ブログより来ました。よろしければ同名のFC2ブログの方も参照ください。EDHの少し変わった理論を書き連ねてます。
あいさつがてら早速昔の記事を一つ。前のブログのさらに前に書いた「ガチカジュアル論争」だ。遊戯王やってた時期なのでその話も出てるし、《Mana Crypt》は20kだったらしい。
↓
EDHにおいても盛んに行われるガチカジュアル論争。これについて思う所がある。
カードゲームをしていく上でこういった意識の違いは避けては通れない。遊戯王をやっていた時にも「ガチデッカス」「ファンデッカス」といった蔑称があった。ポケモンには「マイオナ」といったマイナーポケモンで勝つことをただの自慰であると貶める意識が存在する。
私はあくまでもネタでこういったことを口にはするが(こういった不謹慎なネタが好きだからだ)、全てそんなものは存在しないと考えている。それはゲームを趣味といいつつ人生のその殆どをカードゲームに費やしてきた私の確たるロジックである。
遊戯王の話をしよう。よく区別されるのはガチ<=>ファンだがそもそも私は「ガチなファンデッキ」をたくさん持っている。ゲームの目的が勝利であって、それに向かう時点でそれはガチデッキであり、それに至る過程を工夫したのがファンデッキであるならそれらは共存しうるだろう。もし勝利に向かうことがないデッキすらファンデッキと呼ぶのならそれは間違っている。勝ちを放棄したデッキにはデッキとしての価値はない。かつて嫁デッキですといって霊使いぶち込んだだけのデッキを作ったことは誰もが一度は必ず通るはず。そのデッキのスペルをそれだけ強力にしたとしても、攻撃力1900の魔法使いを使っていない時点でデュエルへの冒涜であることにはかわりないということをガチデッカーは言っているのだろう。そこで好きなカードで勝つことを重視するのがファンデッカーである。論点が違うのだ。
ポケモンの話をしよう。よくマイオナ言われるのはパッと思いつく所でブイズパだろうか。確かにエーフィニンフィアあたりの性能はかなり高いし、それで勝つことも可能だろう。ただ本気の本気で勝ちを目指しに行くのにパーティに縛りを設ける必要がないだろうという、あまりにも当然なところで諍いは起きる。ゲームの楽しみ方はひとそれぞれ。これで勝つことを快感とする人もいれば、邪悪と咎める人もいるだろう。
これらからわかることがある。ゲームに対する意識は個人差がある。さらにそこには個人が思ってるよりも大きな隔たりがあるのだろう。かつて私が理解できない人類を拒絶した時のように、自らの価値観をあたかも世界の真理と錯覚する心の相対速度と言ったところか。
EDHではガチ<=>カジュアルといった住み分けにおいて論争が起きる。MtGというゲームはかなり資産による勝敗の支配率が大きい。遊戯王ぐらいならエクストラデッキの必須カードをある程度持っていればどんなデッキでもある程度の汎用性を得られるが、MtGにおける「それ」はあまりにもサイフの忠誠度を大マイナスにする奥義を必要とするからだ。デッキにデュアルランドを入れればライフが2点ぐらい余分に入手できる実感を得ることができる(ショックランドと比べて、だ)。ただしサイフには10kのダメージを受けてもらう。《Mana Crypt》は《太陽の指輪》の比ではない加速度をデッキにもたらしてくれる。ただし20kの代償でだ(当時)。こんなのは真面目にやってても敬遠したくなる。
世ではこういったマネーに糸目をつけない構築をガチ、有り合わせで作った構築をカジュアルと呼ぶのだろうか。もはやその定義ですら定かではないが、一つわかることは、どんな構築でもEDHである以上それはカジュアルだろうと。公式からしてみたらこれはカジュアルフォーマットである。また次元が違う故に「ガチのカジュアルデッキ」の存在も確認できる。エスパーカラーのジェネラルにおいて《むかつき》をうたずに《不朽の理想》を打つ意味はない。打っても勝利が決まらない7マナのソーサリーと打ったらそのターンに勝てる5マナのインスタントなら明らかに前者はカジュアルで後者はガチに見えるだろう。
この視点で見ればどちらかというと対比すべきはガチ<=>ネタであることがわかる。しかしこれもまた難しい。確かに《不朽の理想》は《むかつき》を打つデッキの下位互換のネタデッキであるが、どういう訳かこのデッキには存在意義がある。それこそが私がEDHという多人数ゲームに見出した可能性だ。デッキをわざと弱くすることはとても難しい。しかし、手にした力を捨ててまで勝利の美酒を遠ざけるという一見不合理に見える世界の先に本当にゲームを楽しめるものがあると感じれたし、このフォーマットはそれが許されるのだ。
私のデッキはズアーだが、むかつきは入っていない。それゆえに他プレイヤーに殴られなくなるかもしれない。実際はそんなこと全然なくて《ラノワールのエルフ》が毎回殴ってくるわけだが。それじゃなくてもEDHは他家との兼ね合いで成り立つゲーム。あえてゲームスピードを遅くする理由もあることは察してくれるはずだ。最終的に勝利を目指すことはプレイヤーの義務だが、カジュアルにおいては一回一回の勝利に意味はないのだ。
EDHは多人数戦であるがゆえにカジュアルであり、それゆえに「あえて」弱いデッキも許容されているということ。遊戯王やポケモンの例を最初にあげたがそういったゲームでのそういった論争は二人対戦ゲーム故収まる気がしないが、このEDHに関してはもう「住み分けろ」ってことで終着してると思うし、これ以上ゲームの価値を貶めて欲しくない。もし初ターンに友好色のギルドゲートを置くようなデッキ相手に2ターン目に《むかつき》打って勝って喜んでるならEDH向いてないということ。これは極端な例だが、私はかつて白黒の時、あまりにもデッキが弱いもんで生き埋めウーズに頼ることしかできず、絶望の勝利を拾ってきた。勝つから楽しいんだよ!と豪語してきた私ですらこの時このフォーマットの真意を悟れたぐらいだから、未来は明るいとは思うが。
カードゲームなんて課金は絶対に必要なんだからコミュニティ内で切磋琢磨するしかない。ポケモンにおける厳選の「時間」や各種カードゲームで強さを求めるための「金」はどうしても個人差が出てしまう。ある。ガチとそれ以下の差は確かにある。私は下位互換という言葉を知った時からそれが嫌いで、「何で○○が入ってないの?」は常に問答してきた課題だ。ゆえに自分はガチプレイヤーだと思う。ただトーナメントプレイヤーじゃないのでそういう意味ではカジュアルプレイヤーだ。今一度、このタイトルのような論争の意味のなさを考えて欲しい。どんなコンテンツでも、その価値を貶めるのは「厨」に分類される一部の盲目的な人間であるということに。
解決策は少ない。全員がこの違いを理解していて、かつ双方が理解にポジティブである必要がある。それは難しい。少しでも近づくためのこの記事なのだが、現実的には座るときにガチかカジュアルか宣言して、2種類のデッキを持っておくことだろう。
少しでも気持ち良くゲームができるために…
それでは。
あいさつがてら早速昔の記事を一つ。前のブログのさらに前に書いた「ガチカジュアル論争」だ。遊戯王やってた時期なのでその話も出てるし、《Mana Crypt》は20kだったらしい。
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EDHにおいても盛んに行われるガチカジュアル論争。これについて思う所がある。
カードゲームをしていく上でこういった意識の違いは避けては通れない。遊戯王をやっていた時にも「ガチデッカス」「ファンデッカス」といった蔑称があった。ポケモンには「マイオナ」といったマイナーポケモンで勝つことをただの自慰であると貶める意識が存在する。
私はあくまでもネタでこういったことを口にはするが(こういった不謹慎なネタが好きだからだ)、全てそんなものは存在しないと考えている。それはゲームを趣味といいつつ人生のその殆どをカードゲームに費やしてきた私の確たるロジックである。
遊戯王の話をしよう。よく区別されるのはガチ<=>ファンだがそもそも私は「ガチなファンデッキ」をたくさん持っている。ゲームの目的が勝利であって、それに向かう時点でそれはガチデッキであり、それに至る過程を工夫したのがファンデッキであるならそれらは共存しうるだろう。もし勝利に向かうことがないデッキすらファンデッキと呼ぶのならそれは間違っている。勝ちを放棄したデッキにはデッキとしての価値はない。かつて嫁デッキですといって霊使いぶち込んだだけのデッキを作ったことは誰もが一度は必ず通るはず。そのデッキのスペルをそれだけ強力にしたとしても、攻撃力1900の魔法使いを使っていない時点でデュエルへの冒涜であることにはかわりないということをガチデッカーは言っているのだろう。そこで好きなカードで勝つことを重視するのがファンデッカーである。論点が違うのだ。
ポケモンの話をしよう。よくマイオナ言われるのはパッと思いつく所でブイズパだろうか。確かにエーフィニンフィアあたりの性能はかなり高いし、それで勝つことも可能だろう。ただ本気の本気で勝ちを目指しに行くのにパーティに縛りを設ける必要がないだろうという、あまりにも当然なところで諍いは起きる。ゲームの楽しみ方はひとそれぞれ。これで勝つことを快感とする人もいれば、邪悪と咎める人もいるだろう。
これらからわかることがある。ゲームに対する意識は個人差がある。さらにそこには個人が思ってるよりも大きな隔たりがあるのだろう。かつて私が理解できない人類を拒絶した時のように、自らの価値観をあたかも世界の真理と錯覚する心の相対速度と言ったところか。
EDHではガチ<=>カジュアルといった住み分けにおいて論争が起きる。MtGというゲームはかなり資産による勝敗の支配率が大きい。遊戯王ぐらいならエクストラデッキの必須カードをある程度持っていればどんなデッキでもある程度の汎用性を得られるが、MtGにおける「それ」はあまりにもサイフの忠誠度を大マイナスにする奥義を必要とするからだ。デッキにデュアルランドを入れればライフが2点ぐらい余分に入手できる実感を得ることができる(ショックランドと比べて、だ)。ただしサイフには10kのダメージを受けてもらう。《Mana Crypt》は《太陽の指輪》の比ではない加速度をデッキにもたらしてくれる。ただし20kの代償でだ(当時)。こんなのは真面目にやってても敬遠したくなる。
世ではこういったマネーに糸目をつけない構築をガチ、有り合わせで作った構築をカジュアルと呼ぶのだろうか。もはやその定義ですら定かではないが、一つわかることは、どんな構築でもEDHである以上それはカジュアルだろうと。公式からしてみたらこれはカジュアルフォーマットである。また次元が違う故に「ガチのカジュアルデッキ」の存在も確認できる。エスパーカラーのジェネラルにおいて《むかつき》をうたずに《不朽の理想》を打つ意味はない。打っても勝利が決まらない7マナのソーサリーと打ったらそのターンに勝てる5マナのインスタントなら明らかに前者はカジュアルで後者はガチに見えるだろう。
この視点で見ればどちらかというと対比すべきはガチ<=>ネタであることがわかる。しかしこれもまた難しい。確かに《不朽の理想》は《むかつき》を打つデッキの下位互換のネタデッキであるが、どういう訳かこのデッキには存在意義がある。それこそが私がEDHという多人数ゲームに見出した可能性だ。デッキをわざと弱くすることはとても難しい。しかし、手にした力を捨ててまで勝利の美酒を遠ざけるという一見不合理に見える世界の先に本当にゲームを楽しめるものがあると感じれたし、このフォーマットはそれが許されるのだ。
私のデッキはズアーだが、むかつきは入っていない。それゆえに他プレイヤーに殴られなくなるかもしれない。実際はそんなこと全然なくて《ラノワールのエルフ》が毎回殴ってくるわけだが。それじゃなくてもEDHは他家との兼ね合いで成り立つゲーム。あえてゲームスピードを遅くする理由もあることは察してくれるはずだ。最終的に勝利を目指すことはプレイヤーの義務だが、カジュアルにおいては一回一回の勝利に意味はないのだ。
EDHは多人数戦であるがゆえにカジュアルであり、それゆえに「あえて」弱いデッキも許容されているということ。遊戯王やポケモンの例を最初にあげたがそういったゲームでのそういった論争は二人対戦ゲーム故収まる気がしないが、このEDHに関してはもう「住み分けろ」ってことで終着してると思うし、これ以上ゲームの価値を貶めて欲しくない。もし初ターンに友好色のギルドゲートを置くようなデッキ相手に2ターン目に《むかつき》打って勝って喜んでるならEDH向いてないということ。これは極端な例だが、私はかつて白黒の時、あまりにもデッキが弱いもんで生き埋めウーズに頼ることしかできず、絶望の勝利を拾ってきた。勝つから楽しいんだよ!と豪語してきた私ですらこの時このフォーマットの真意を悟れたぐらいだから、未来は明るいとは思うが。
カードゲームなんて課金は絶対に必要なんだからコミュニティ内で切磋琢磨するしかない。ポケモンにおける厳選の「時間」や各種カードゲームで強さを求めるための「金」はどうしても個人差が出てしまう。ある。ガチとそれ以下の差は確かにある。私は下位互換という言葉を知った時からそれが嫌いで、「何で○○が入ってないの?」は常に問答してきた課題だ。ゆえに自分はガチプレイヤーだと思う。ただトーナメントプレイヤーじゃないのでそういう意味ではカジュアルプレイヤーだ。今一度、このタイトルのような論争の意味のなさを考えて欲しい。どんなコンテンツでも、その価値を貶めるのは「厨」に分類される一部の盲目的な人間であるということに。
解決策は少ない。全員がこの違いを理解していて、かつ双方が理解にポジティブである必要がある。それは難しい。少しでも近づくためのこの記事なのだが、現実的には座るときにガチかカジュアルか宣言して、2種類のデッキを持っておくことだろう。
少しでも気持ち良くゲームができるために…
それでは。
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