ゲームをする以上、最低限勝利に向かわなければゲームが成立しないというのが私の持論だ。勿論楽しむのを全面に出してプレイすることも認めているし、実践もしているつもりだが、「勝利」に対する冒涜だけは著しくゲーム性を失わせるため侵さないようにしている。

遊戯王から半ばMtG(というよりEDH)に移行してからご無沙汰だった遊戯王を最近また触ったのだが、最近気づいた「勝つほうが早い」という概念が全てのゲームに共通する事実であることを再認識して落胆している。

例を挙げると、EDHでいう《浄化の戦術家、デリーヴィー》だろうか。私自身このジェネラルの汎用性・柔軟性は対戦相手として使われているうちから強く評価していて、いつしか自分もこのカードでコントロールデッキが組みたいと思っていた。確かにジェネラルに《浄化の戦術家、デリーヴィー》を据えたデッキは多く思いつくが、どれも「勝つほうが早い」にぶち当たるのが関の山だった。強すぎるジェネラルであるがゆえに「遊び」が「勝つほうが早い」に負け、「勝利」への冒涜となる。私はこれのせいで世界が激しく狭く感じるのだ。

私はとある1枚のカードをフィーチャーしたデッキが好きで、遊戯王でも好きな1枚のカードで勝つために試行錯誤していた。私がやろうとしたことは端的に言えば「勝つのに十分な下準備ができる速度で行った準備を用いて、勝たないアクションを実行する」といったことだった。好きだという理由で弱いカードを使ってるが故の悲しみだが、これがカジュアルだからという理由でどこまで許されるかは個人の線引きによるものだろう。ガチとカジュアルを完全に分離できる人であれば気にしないのかもしれない。ただどんな立場に対してであろうと言えることは「最終的に勝ちに向かうのであれば、なぜ『勝つほうが早い』方法を使わないのか」だ。

これに勝てる理論が欲しい。トーナメントプレイヤーに対して失礼な物言いになるが、もし勝つことだけを考えることができるのであればカードゲームはどれだけ楽なことか、と思うほどの閉塞感を感じている。

それでは。

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